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休日の過ごし方を考える

  毎度のこと、休みが来るのは嬉しいことなのですが、どう過ごすかを考え悩むのが常です。過ごし方次第で、次の日からの平日の気分が変わってきます。今日は、現段階の分析と言いますか、自分の感じ方なども含めて、より良い過ごし方をまとめてみたいと思います。 1、休日の自分の感じ方  私の仕事は、土日休みが基本的に固定されています。まれに、土曜日に出勤することがありますが、年に1、2回程度です。ですから、基本的に平日5日間働いて、土日2日間休むというルーティーンです。  平日は、仕事の忙しさのあまり、日によりますが、気分がどっと落ち込んだり、体が重く感じます。「華の金曜日」であっても、何もしたくない、家で休みたいと思うことも多いです。せっかく早く帰れてもそんな感じです。  でもそれは、時期によっても異なったり、その週の仕事の具合によって変わったりもします。時期については、後ほど考えたいと思います。  土曜日は、「遅くまで寝ていられる」という安心感がありがたく、たいていいつもよりも2〜3時間ほど遅れて目が覚めるのが通常です。遅くて10時過ぎに目がさめることもあります。  日によって異なりますが、サクサク動ける時もあれば、何もしたくないと思う時もあります。出かけるのは決まって土曜日に行くことが多いです。なぜなら、次の日も休みだという嬉しさを感じながらその日を過ごしたいと思うからです。出かけるとなると、よっぽど疲れていない限り、出かけることが多いですが、何せお金を使うので、毎週毎週出かけるというのは難しさがあります。  日曜日は、朝ゆっくり過ごせることに嬉しさを感じるものの、午後になるにつれて次の日のことを考えてしまい、気分が落ち込みやすいです。何をするにも、行動を始めるのがたいていお昼前後なので、何をするかいつも悩みます。  おそらく、このような感じ方をする人は、世の中に大勢いらっしゃると思います。 2、時期による違い  四季の移ろいの中でも、気分は変わってきます。  夏は日照時間の長さから、冬に比べてアクティブになりやすいです。ただ、ここ数年暑さが厳しい故、家から出る回数が年々減ってきているようにも思います。ましてや夏は旅行に行くにも料金が高く、出かけようという気分に追い打ちをかけます。  一方冬は、寒さと日照時間の短さから、気分が落ち込みやすく、何をするにも億劫になりやすいよう

自分の支えとなる人

 生きていく上で、判断に困ったときや悩んだとき、自分の支えとなるものは何か。   これは意外と重要なことで、普段眼をそらしてきたことであっても、ついに直面せざるを得なくなったときに、必要となってくるものである。  最初のうちはそれに悩んで苦しかったが、最近はとりあえず一つの答えが出たように思っている。  悩んだときの自分の支えとなるもの。それは、「信頼をしている人」の姿である。  私が最も「信頼をしている人」は、私の両親である。生まれてからこのかた、常に自分の味方であってくれた。困ったときも相談にのってくれたり、何より今の自分があるのは両親が育ててくれたからである。  と同時に、いざ自分が自分の足で生きていくことになったときに、最も手本としたいと思うのは、両親のこれまでの生き方である。困ったときにどう対応してきたか。自分が進む道を、両親も認めてくれたり、実際にその道を通ってきていたりすることで、どことなく自分の中に安心感が生まれ、「それでいいのだ」と思えるようになる。  これは、人によって異なると思う。私にとっての「信頼をしている人」は両親であったが、他にも、友人や恋人、親戚や恩師など、人によって様々だと思う。  ただ、重要なのは、その人が「自分がそのようになりたい」と思える人であるということだと思う。    漠然としたものであっても、自分の中でめざす生き方がその人の生き方であれば、自分が迷ったときでも、ストンと納得がいくようになる。それだけで、道が開けたような感覚になる。「それでいいんだよ」とその信頼をしている人から声をかけてもらえるようならなおさら安心して前に進むことができる。  欲を言えばその人が、過去に様々な「失敗をしてきている人」であると尚良い気がする。失敗というのもこれまた様々だが、それは自分の身の丈に合うものであるとよいと思う。「あ、そんなことがあったんだ。」と、そう思えることが大事で、自分がいざそんな失敗をすることがあっても、「大丈夫」と心のお守りになるはずである。  自分の足で人生を進んでいくようになると、その前には気づかなかったことや悩み、苦しみがある。そんなときに、「自分の支えとなる人」つまり「自分が信頼している人」の姿が有難いものであると、つい最近気づいたのでここに書いてみた次第である。

今すべきことは何か、人生をかけて取り組みたいことは。

  歳をとってくると、だんだんそんなことを考えるようになる。とはいえ、そこまで歳をとっているわけでもないのだけれども。  日に日に、若さが失われてきているのを感じる。体力面でも、健康面でも、心配になることが増えてきた。これまでのような生活習慣を続けていくのは、よくないのだろうと思い始めてきた。  体が自由に動くうちに、頭がしっかりと働くうちに、できることはなんだろうと、最近思うようになった。  20代の時は、「自分はまだ若い」と言う意識が根底にあり、いろいろなことを経験したり、遠回りすることも多々あった。多少の無理も許容範囲だったものの、最近はそうもいかなくなり、すべきことを絞って考える必要が出てきた。(と勝手に感じている)  自分の身の回りの環境にも、少しずつ変化が出てきていて、なおさらそう考えるようになった。  とは言いつつも、そうすぐには「すべきこと」など出てくるわけもない。これから、じっくり考えていかなければならないのだと思う。  それに関連して、今自分がしたいことはなんだろうと考えることもある。人生をかけて取り組みたいこと、使命感にも近いのだろうけれども、そんなものが見つかったりしないものかと考える。何せ三日坊主の性格ゆえ、一つのことがなかなか続かず、飽きっぽいところがあって、それが実になりにくい状況を生み出している。  あらゆることに手を出してみて、多少は続くのだろうが、すぐに飽きが来てしまう。ただ不思議なことに、時間が経てばまたやりたいなと思うものもある。長い目で、少しずつ付き合っていくのが良いのかもしれない。  ただ、そんな性格であったとしても、何か一つでも「人生をかけてやってみたいこと」が見つかって欲しいものである。それが自分の生きるエネルギーにもなっていくような気がしたからである。  そういうものは、時間をかけてじっくり取り組んだ先に、見えてくるもののような気がする。今はまだ途中であって、もう少し取り組んでいくことでその価値が見えてくるのかもしれない。仕事がその良い例だと言える。  道半ば、「本当にこれでいいのか」と毎日のように悩み答えが出ないままであるが、その思いは大事にしつつも、20代と変わらずいろいろな経験を惜しまず、「やってみたいこと」がいつか見つかると信じて進んでいく。それが今すべきことなのかもしれない。

人のふり見て・・

  「人のふり見て、我がふり直せ」という言葉がある。私はその都度、この言葉を意識することがある。  相手の気持ちというのは、分かっているようで意外と分かっていないことがある。自分には理解し難い行動も、相手の立場に立てば理解できることがある。  普段、特に仕事をしている時にそう思うことが多い。若い頃は、なんでそんなことするのだろう、もっとこうすりゃいいのに、などと思うことが度々あった。自分だったら真似したくないな、ああはなりたくないなと言った具合に。  でも歳をとって立場が少しずつ変わってくると、若い時になりたくないなと思ったあの姿に、自分もなりかけていることにふと気がつく。  自分を取り巻く状況が変わってくることで、自分の考え方や行動にも変化が出てくるのだなと、ここ最近気付いた。  ただ、若い時にはなりたくないと思っていた相手の立場に、いざ自分がなってみることで、どうしてそのようになってしまうのかが見えてくる。そこから、自分の中に新たな視点が生まれてくる。  そうなれば、安易に相手を批判したり、否定したりすることが難しくなる。その気持ちや行動をする理由が見えてくるから。    では、そんな時にどう考え、行動すれば良いだろうか。  ここで言う「新たな視点」とは、哀しくも歳をとり立場が変わらないことには、生まれないものであるような気がする。つまり、時が経つことでしか生まれてこないものなのだと思う。  だとすれば今の自分にできることは、自分より年上の方々の行動を見て、今の自分にある視点から解釈を続けていくことであると思う。そこで安易に、否定するのではなく、どんな意味があるのだろうかと考え続けること、「理由があるはずだ」と認めることを第一とするべきだと思う。  そうやって、見方や考え方を深めていくのが良いのだろう。つまり、「人のふり見て、我がふり直せ」。相手の姿から、自分の考えや行動を見直し続けていくこと。言葉の意図するものとは少しずれているとは思うが、大きくは間違っていない気もする。  自分の視点を大事にしつつも、少しでも相手への理解を示していけるようになりたいと思う。